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メグミオギタギャラリーで Karim B. Hamid 展を観る

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( 某日。 エントリー「 グルダのモーツァルトを聴きながらGinza Six で展示を観る 」の続き。 Ginza Six を出る。 MEGUMI OGITA Gallery まで徒歩で向かう。 開催中の Karim B. Hamid カリム・B・ハミド 展  Upon The End of Play and Infancy を観る。アメリカはロサンゼルスに生まれ、ロンドンのロイヤルアカデミーオブアーツで学んだあと、サンフランシスコ・アート・インスティテュートで修士号を取得して、現在はコロラドの拠点を置いて活躍する画家。日本初個展のようだ。 1220 x 1220 x 40 (mm) の作品3つ。Triptych ということではないけれども、同じ系列。 1002 x 760 x 40 (mm) の作品2つ、および5枚が写った壁面。 そのほかの作品群。椅子に座っている。 フランシス・ベーコンを思い出す。 10年前のインタヴュー でKarim Hamidは自分を特にインスパイアした画家としてベーコンとカラヴァッジオの名を挙げている。 広いギャラリー空間の中に自分1人しか鑑賞者が居ない。贅沢な空間の中で1人でゆっくりと観る。 展示作品だけではなくそれ以外のいくつかの作品をartsy で購入できる。 https://www.artsy.net/artist/karim-hamid ギャラリーを出て銀座駅に戻り銀座線に乗り渋谷駅で降りる。 いつものウィリアムモリス 珈琲&ギャラリーに行き、モカを飲みながら店主さんとお話しする。 カフェを出る。The Avalanches, Wildflower を聴きながら移動する。 Crisp Salad Works で本日第2食目、The Cal-Mexをベースに、ほうれん草をケールに、クルトンをサンフラワーシードに変更、ウォルナッツ、オリーヴオイル、塩胡椒を追加したものを食べる。 帰宅する。13,000歩ほど。 メール、作業、音楽。 マグネシウム (にがり顆粒 1g) を摂取。 Coconut oil pulling、軽くストレッチ、就寝。 )

グルダのモーツァルトを聴きながらGinza Six で展示を観る

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( 某日。 エントリー「 伊勢丹新宿で国本泰英展を観る 」の続き。 再び伊勢丹新宿店の地下1階に降りて、さらに賑やかになっている食品街を通過して、新宿三丁目駅に入り地下鉄丸ノ内線に乗車する。 銀座駅で下車してGinza Sixに向かう。6階銀座蔦屋書店の各所で開催中のいくつかの展示を観る。 Friedlich Gulda (with Claudio Abbado, Wiener Philhamoniker)「 モーツァルト: ピアノ協奏曲第20番・第21番 」を聴きながら。 フォークロアアーティスト 中谷健一 作品展「 虚歪民藝(きょわいみんげい) 」より。 日本の民藝品を「グリッチエフェクト」を取り入れて再構成したもの、とのこと。として紹介されている。フォークロアアーティストというカテゴリーを初めて耳にする。 アートウォールにて、 鈴木一世 作品展「 punctuation 」より。 FOAM CONTEMPORARYにて、 新井碧 個展「 持続する線 」より。 「鑑賞者に「描く行為」自体を身体的に想像・追体験させる手法で、共生の時代であるからこそ、生命と時間の在り方について問う」とのこと。 良い。というか好みの系列。観ながら何となくCy Twombly と Joan Mitchell を思い出す。あとで作家のステートメントを読むと、作家はRoland Barthes 経由でCy Twomblyに言及していた。 ステートメント 『無意識的な「動作」と、その再解釈を繰り返す。行為の構成要素でもあり、痕跡であるストロークに、身体の有限性と絵画の無限性が備わる。 ロラン・バルトのトゥオンブリ批評に、こんな一説がある。 「手だけが彼を導く。道具としての手の能力ではなく、手の欲望が導くのである。眼は理性であり、証明であり、経験主義であり、真実らしさであり、制御、調整、模倣に役立つすべてのものである。(中略)トゥオンブリの作品が読み取らせるのは、私の身体は決して君の身体ではないだろうという宿命である」 眼でなく、手で描く。意識の記憶でなく、身体の記憶で描く。 それは、呼吸をすること、まばたきをすること、心臓が脈打つこと。 意識せずとも動作する私の身体は、明確な意思を持って生きているのではなく、生かされている。 自身の時間の痕跡を介して、あなた自身の有限性に触れる。 (参考

伊勢丹新宿で国本泰英展を観る

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( 某日。 金融機関に用事があり昼前に外出する。 無事用事を終える。カフェでアイスコーヒーを飲みながら報告メールを書いて送信する。 Keith Jarrett, Somewhere を聴いている。 せっかく外出したのでそのままギャラリーをいくつか観てまわることにする。 新宿に移動して伊勢丹新宿に入る。相変わらず賑やかな地下食品街を抜けて本館6階アートギャラリーに着き、開催中の 国本泰英展 を観る。 「これまでの経験の中で、見てきたものについて、どのくらい正確に記憶しているだろう。 絵を描く時、その問いの答えが明確になった。「見てきたもの」=「視覚的なイメージ」を再現できない事で、自分が、物事をどれだけ大雑把に捉え、それを「記憶」と決めた、揺らいだ世界の中で暮らしているのかを認識した。 「視覚」を拠り所にするほど、「記憶」は頼りない。 人に対しても同様に、再現性を持たない、揺らいだ景色として向き合うしかない。 長年会っていない同級生の顔も、昨日テレビで観たヨコヅナの姿も、同じような揺らぎの中で、私は「記憶」している。」 と作家は上記リンク先のサイトで記している。 というわけで相撲から。 今まで観たことのない画風の作品画像2つ。ギャラリーの方によると今回初めて発表とのこと。 泳ぐ人たち。 1階下の本館5階のウォッチセクションにさまざまな作家の作品が展示されていて、国本さんの作品も1つ展示されていることを、ギャラリーの方が教えて下さる。 5階に降りる。あった。 同セクションから別の作家の作品を1つ。 チェン・ジャン・ホン「鳳蓮」 こちらのサイト で分かる通り、自分は 国本泰英 さんの作品を1つ所蔵している。 100x100(mm)、アクリル、キャンバス。歩く匿名の人々の群れを上から俯瞰して部分を切り取ったもの。ステンシル技法かと思ったけれどもそうではなく筆で描いている、と購入時にお会いした時お話しした作家は言っていた 。 7:00 起床。N Y 市場終値をチェック。   グラス一杯の水を飲んで柱サボテンとボトルツリーをヴェランダに出す。   シャワー。 9:00-9:30  第一食。自炊。マグネシウム  ( にがり顆粒  2g) 、ビタミン B (Dear-Natura Mix) 、ビタミン C (L- アスコルビン酸   1.5g) 、ビタミン D3 (Health

ウィリアムモリス 珈琲&ギャラリー30周年

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( 某日。 横浜で用事があり第1食後に外出する。 いろいろ相談しながら無事用事を終える。 渋谷駅で下車しウィリアムモリス 珈琲&ギャラリーに行く。 月に1つの展示というスケジュールとともにお店を始めてから30周年になる。この30年間に展示したことのある「195人の作家から届いた、手がみ」展。葉書サイズの紙に文章が記されたり絵画が描かれることで制作された「 手がみ」小作品群の展示で、展示が終わったら全ての作品を手作りの1冊の冊子に収めることになっている。 5周年ごとに同様の展示をやっている。自分はこのお店に行き始めて12年ほど。20周年記念と25周年記念の展示は見ている。 展示した全作家から「手がみ」が届いたわけではない。30年にもなると亡くなった作家や行方不明になってしまった作家もいるようだ。 店内に入ったところの壁面に置かれた最初の1993年の展示作家による「手がみ」作品群から始まり、時系列展示順に作家の「手がみ」作品が店内を一周するように設置され、最初の壁面に戻ってきたところに最新の展示作家の作品が飾られている。 複数年・複数回展示を行った作家は、最初に展示を行ったときの時系列場所に配置するというルールのようだ。例えば4回展示をしたタダジュンさんの「手がみ」は、初回展示である2000年8月の箇所に設置されている。 1993年に展示をされた作家から。30年活動を続けていることを尊敬する。 店内入ってすぐの壁の部分。下段は1994年展示作家の作品群。上段は一周して2022~2023年展示作家の作品群。 上画像の続き。下段は1995年、上段は2023年、上段右が2023年5月の最新の展示作家。 他にも「手がみ」多数。 次の画像、上段右から2つ目の作品には店主さんが珈琲を淹れるところが描かれている。佇まいが似ている。 次の画像中、黒ハット・目・手・珈琲図柄のコラージュ作品は上述のタダジュンさんによるもの。 次の画像中、最上段の右から2番目の作品は野澤義宣さんによるもの。2007年11月。自分はまだこのカフェに来ていない。エントリー「 荒井虹子個展をGallery Saoh & Tomos で観る 」で述べたように、自分は野澤義宣作品を1つ所蔵している。ウィリアムモリス 珈琲&ギャラリーでも展示していたとは知らなかった。 30周年記念展示の最後の画像。画像中、 右