清川漠個展、浅岡慶子展、などを観る

( 某日。 いくつかギャラリーを見てまわろうと午後2時過ぎに外出する。 Radiohead, Com Lag: 2+2=5 を聴きながら。 銀座線の三越前駅で下車する。地下1階の高級食品街はいつも混雑している。食品街を見るのも好きなので上階のギャラリーに向かう前に食品街を歩き回る。 食材のさまざまな匂い・香り、色彩を楽しむ。買うものはないのだけれども。 本館6階のコンテンポラリーギャラリーに入り、開催中の 清川漠 個展「 境界線上に在る 」を観る。 作家の言葉 「基準を決めて区別して当たり前に切り分けてきた世界に対して、境界線を取っ払うと簡単に言うけれど 許すと許せないの間は、反復横跳びのように自分の真横にひょいと跨げるような短い横線がある訳ではなく、ただひたすら走って走っても許すには到底辿りつけない長い道のようなものなんだと知った。 そのような境界線は日常にもたくさんある。 ただそれが在ると認識するだけで良い。」 三越前駅から再び銀座線に乗り京橋駅で下車する。 ギャルリー東京ユマニテ で開催中の浅岡慶子 展「『珠』を視採みとらば、」を観る。 鉛筆、ガッシュ、紙、アクリルケース。画像では繊細さを捉えることが全くできないけれども。 作家の言葉 「「珠」を視つめ採ったつもりが 「珠」に視捕られたような気がしないでもない 何が何故だ?と思いつつ 時には「珠」から遠く離れて暮らすのに 気がつけば「珠」はわたしの中で息づいている それって「珠」の意志なのか? それとも? そのような不思議がおもしろく 果てない「珠」を探してしまう」 会場には、作家が1974年のヨーゼフ・ボイスのNYでのパフォーマンス「 コヨーテ -私はアメリカが好き、アメリカも私が好き 」にたまたま立ち寄った時に、ボイスのピンと張った視線が作家に注がれ、作家がその視線を見返して見つめ合った10秒程度の経験・その記憶・その含意について、作家が記した文章が置いてあった。「正直言って、私は評論家の大方の文章は、芸術家の芸術の実際とは大きく乖離しているなあ、と失望することが多いので、ほとんど読みません」で始まる文章。 すぐ隣のアートスペース羅針盤では「 羅針盤コレクション展 」をやっていた。 作家名省略。 6:00 起床。 N Y 市場終値をチェック。 グラス一杯の水を飲ん...